正しい日本語を進化させるSNS is いとをかし
日本語の乱れ、本来の意味と違う言葉。
こういったものはSNS上でよくみられる気がします。
私たちは日本人なんだから、母国語くらい正しく使おうよ!
私は間違った日本語に過敏になって目くじらを立てていました。(過去形)
今使った”目くじらを立てる”と言う言葉。元は目くじり(目尻)を立てるという表現で、目じりを吊り上げている様子。つまり怒った表情を意味していました。
現代では責める、非難する、といった意味が含まれていますね。
元の意味でとらえて先ほどの文を見れば、
私は間違った日本語に過敏になって怒ってました。意味は伝わりますが、ニュアンスは変わります。
私は日本語が好きです。この不完全さ、曖昧さを美しく感じます。
この記事は
昔の私がそうだったように、
間違った日本語が嫌いな人
または、日本語の正しさってなに?と思う人
に向けて書いています。
とりま、秒で読める内容なんで。
目次
日本語は難しい
難しいんです
日本語が好きな人、日本語について詳しく知りたい、知っている人ほど難しさについて知っています。
よく聞く話で、外国人が日本語を勉強するときに助詞で挫折する。というものがありますよね。
「ハンバーグは食べた」なのか「ハンバーグが食べた」なのか「ハンバーグを食べた」なのか
生まれてからこの国で育ってきた私たちであれば、この違和感にすぐに気づくことができます。
しかしこれならどうでしょう。
「私はハンバーグです」
「私がハンバーグです」
この違いを明確に説明できるひとはどれくらいいるのでしょうか。
ぼんやりと感覚は掴めると思います。
大抵の人は日常でこの難解な助詞を明確に使いこなしています。(もちろんおかしな使い方をしているひともいます。)
これってすごいことだと思いませんか?
日本語は変化している
言葉の意味は時代とともに変化してきました。
やばい
「やばい」ってどういう意味ですか?
この言葉は元あった「やば」という言葉が形容詞になったものだと言われております。
所説ありますが、
昔、罪人が捕まって送られるところを”やば”と呼び、”やば”とかかわると危険であることから罪人の間で「やばい」が使われた。
または弓に使われる”矢羽”、それに射られることが危険な状態から「やばい」となったという見方もあるようです。
昔の語源がどうあれ、現在での意味は、危険な様子を表していますよね。
若者言葉としては「やばい」といえば、すごい。そんな感じではないでしょうか?
若者がやばいと口にしているのを聞いて、違和感を感じる方は元の意味を思い浮かべているからではないでしょうか。
やばい!ちょーかっこいい!
でも、
あぶない!とてもかっこいい!
となれば、なんだかスパムアカウントが使う文言のようですよね。
この日本語の変化を「やばい」と感じますか?
言葉を正しく使うということ
日本語は難しいものです。
難しいものがさらに変化しています。そのため、余計に難解なものになっていきます。
難解であるが故、理解している人と理解できない人がいます。
当然理解できない人は正しく使うことはできません。
言葉をなんのために使うのか
日常で読んだり聞いたり話したりしている言葉。
なんのために言葉を使っているか。と言われれば、
パッと思い浮かぶのはコミュニケーションのために使っているのではないでしょうか。
そのコミュニケーション間で意味が正しく伝わることが、正しく使われること。
「やばい」も双方に共通の認識があって、意味が伝わってさえいれば、正しい言葉ではないでしょうか。
SNSで進化が加速する
言葉はコミュニケーションのために使われています。
言葉は人の認知で意味をもち、また使われなくなれば、死語とされます。
認識されて初めて生きるものです。
SNSもコミュニケーションツールです。
個人の言葉に社会的な広いつながりを持たせます。このつながりで、生まれたばかりの言葉がより多くの人の目に留まるようになります。
認識が広がり、様々な認知が起こることで、言葉も急速に意味を増やしていきます。
さらに画像や動画も付け加えることで、具体的な状況説明を文章に任せるのではなく、視覚的に理解させることが容易です。そして言葉の意味(認識)を強めます。
こうして強い意味をもつ短い言葉が生まれていきます。
強い意味で、様々な見方を内包しているこの言葉が時に共感を得、またある時には強い反発を生むのではないでしょうか。
正しさがコミュニケーションを破綻させる
言葉の元々使われていた意味を知っていると、ついつい指摘したくなりませんか?
正しさは優位性となりやすいです。
最近は人との間で優位性をとることを「マウントを取る」なんていいますよね。
SNSでも誤用を指摘してマウントを取る人もいます。
意思疎通の場でマウントを取れば、その場は破綻します。
言葉の正しさでマウントを取ったつもりでいても、それは相手の世界ではただの元あった意味であって正しい言葉ではないのです。優位性もなくなります。
そこに残るのは相違性です。
正しさの優位性が相違性に変われば、コミュニケーションは既に破綻しているのです。
たとえば、相違性の話です。
小学校の授業中にトイレに行きたい子が、
「先生トイレー!」
先生はそれを聞き、
「先生はトイレじゃありません!」
といいます。
この子はトイレに行きたいという意味でこの言葉を発しています。それに対して先生の反応は、私はトイレではないという主張です。
こども側から見れば、完全に崩壊したコミュニケーションですよね。(もちろんこのやりとりを否定しているわけではありません。教える立場の先生の使命でもあります。)
このやり取りを社会的なつながりで行うのはいささか滑稽に思えませんか?いうなれば確信犯。
当人の斜に構えたスタンスも失笑ものです。
今まで穿った見方をしていたつもりのかたもここが潮時かもしれません。憮然とする必要もないです。
気が置けない相手とのコミュニケーションを敷居の高いものにしてしまう前に思い返してみましょう。
最後に
進化は多様に変化していくことであって、必ずしも優れた変化であるとは限りません。
新しく生まれて、多様化した意味を内包した言葉も認められるべきではないでしょうか。
そこに正しさはなく、様々な意味を持つ不完全で、曖昧なもの。
それが日本語ではないでしょうか。
てかガチ考察草生える。
とりま、日本語も楽しく使われたほうがチョベリグ。やばみが深いのです。
あーね。と思ったかたも、なしよりのありなかたも、
コメントいただければかまちょな私は超エモいです。